夢を語る、夢を見る 「プライド8」観戦記

「プライド8」(99/11/21 有明コロシアム 試合開始17:00)観戦記 

格闘技戦をじかに見るのは初めてだった。

1.  憧憬

欠如を肌身はなさず抱えて私は生きながらえている。だが、その欠如を充たすに足るモノは言うに及ばず、私がうらやむに値するどんな身分も実は存在しないかもしれない、存在するものなら人間の想像力は無何有(むかう)の郷に至ることもなかったはずだし、幻想を現実に置き換えようというかくも壮大な努力を今なお続けてもいないはずだ、年を経るにつれそんな思いが確かなものになってくる。

私はある執着にじりじりと灼かれてもいる。必要に迫られたら生身で対手の肉体を悠揚と屈服させられるだけの鍛え上げた肉体と磨きぬいた技への振り払いきれない執着に。肉体と技能を駆使して闘うことを生業(なりわい)とするのは格闘家ばかりではないのに、彼らへの羨望を抑えることが出来ない理由である。

その思いが根ざすのは、彼らの単純明晰な《強さ》だ。意味の迷宮に迷い込み、陰影であり喩であることに無自覚的に自足している「強さ」ではない。美しい肉体を充ちる力で膨れ上がらせ、生身で対峙する限りおよそ誰彼の区別なく対手の肉体を、言葉や虚勢には一顧だにせず、打ちのめせるという彼らの顕わな《強さ》だ。

プライドを初めとする格闘家たちの単純明晰な《強さ》は自余の「強さ」に君臨している。やはり肉体と技能を駆使し、グラウンド上を存分にボールと戯れつつ疾駆するサッカー選手が発揮する運動力という「強さ」も、その肉体と技能の精髄を指先にこめ、プロ棋士が盤面に繰りひろげる棋力という「強さ」も、自らの肉体と技能の完全な支配者であることを誇らかに鳴り響かせるマライヤ・キャリーがその声を自在に操って体現する歌唱力という「強さ」も、単純明晰な《強さ》という光源のもたらす陰影であることを逃れず、単純明晰な《強さ》に命脈をつなぐ喩であるに過ぎない。

私の振り払いきれない執着が指向するのはサッカー選手の運動力でもなく、棋士の棋力でもなく、マライアの歌う力でもない。格闘家の武力、顕わな《強さ》である。それは私の執着の熱源、私の恐らく(決して、とは書くまい)実現されることのない企ての現前である。

2.  第一試合

だから、第一試合(ヴァンダレイ・シウバ対松井大二郎)の松井が、開始早々立て続けに膝蹴りを顔面に浴び、純白であったマットの少なからぬ面を迸る大量の鮮血で染め、ドクターチェックを受けた後も、力量が相手に劣ること明らかなのに闘いつづけ、闘いを更に2Rにつなぎ、時にシウバの上に覆い被さりもしながらひたすら時間の経過にすがるという、消極的と言えば言える、敗者であることを既に予感した者の精一杯の闘いを繰りひろげる様を、私は刮目して享受した。闘いの手段にも時間にも制限ある格闘技の試合では、勝者たりえないことを予感したら敗者たることを逃れんとする闘いが、敗者たること必至であると覚悟したら肉体が傷つくことを可能な限り恐れ防がんとする闘いが、格闘家の辿るべき必死な闘いである。あれだけの闘いができるだけでも…。松井は真摯に闘い、見事に敗者となった。(判定6―0)

3.  第四・第五試合

甲乙つけがたい力量の持ち主同士の対戦となった第四試合(マーク・コールマン対リカルド・モラエス)と第五試合(トム・エリクソン対ゲイリー・グッドリッジ)では、開始数秒でこのときの両者の気迫に差がついたかに見えた。その僅かな差で、いずれの対戦でも前者が立ち技では後者に圧力をかけ、寝技では押さえ込む位置を取りはしたが、この押さえ込みの体勢からはっきりした決着へと進展する気配は覗いとれず、いずれ判定で試合の勝ち負けは決まると思われた。

とはいえ、自動車のF1競争やオートバイのグランプリ競争に似て、規矩正しいが激しい闘いが行われていた。従って、両者に明日が約束されるとすれば、いずれかが重大な過誤を冒すことのない限り、という厳しい条件付きであるはずだった。危うい明日しかないと言ってもよかった。彼らの明日は絶えず脅かされている。重大な過誤は軽微な過誤と背中合わせだからだ。軽微な過誤を逃れるためには、細心と大胆、充実した肉体と研ぎ澄まされた技を兼ね備えていなくてはならず、F1やグランプリの場合と同様、プライドのマットの上では保証された明日は実はなきに等しい。

闘いが寝技の応酬へと移り、両者が目立たない動きの中で対手を鬩(せめ)ぎ力と技を競い、それがおよそ目には煌びやかな絢爛たる華やかさを欠いてはいても私が退屈を感じなかった理由だ。

    見ごたえのあったこの二つの対戦、第四試合はコールマン(判定4-0)が、第五試合はエリクソン(判定5-0)が勝者。何れの勝者の肉体の充実にも柔軟さが漲っていると感じられた。巨人モラエスの贅肉が微塵もない肉体、殴り屋グッドリッジの怒れる盛り上がり方をした筋肉に鎧われた肉体、そうした肉体が放つ硬質さは勝者の肉体には感じられなかった。

4.  勝者たち

第六試合(イゴール・ボブチャンチン対フランシスコ・ブエノ)。始まった。襲い掛かった。終わった。1R1分23秒KOでボブチャンチン。

    勝利の花道を引き上げる格闘家たちの様子を私はその都度双眼鏡で眺めた。汗が滲み、紅潮した強く美しい肉体を明るい照明の光が一段と輝かせた。花道の両側を埋め、道をふたぐファンらのハイタッチに太い腕で応じ、握手を求める手には薄いグラブをつけた手をゆだね、ときにはファンが抱きかかえて差し出す幼い子供には接吻で《強さ》の息吹を授け、勝利を闘いとった汗をファンらの掌に分かち与えながら、穏やかな笑みも浮かべ花道の奥に消えるまばゆい肉体。

私がテレビのプロレス番組で見るレスラーたち、その外連(けれん)といや更の言挙げを見慣れている新日本プロレスのレスラーたちとは余りにも対照的だったが、プライドの格闘家の静やかさに私は別段驚かなかった。ここには、無闇に勝利の雄叫びを上げ、自分の強さを声高に誇らずには収まらない格闘家も、敗者の弱さを吹聴し、ののしっている様子の格闘家もいない。

ボブチャンチンの猪突にたじろぐ間もなく数発のパンチで吹き飛ばされたまま動かないマット上のブエノにリングサイドの医者たちが駆け寄ったが、やがてブエノは起き上がり、ボブチャンチンと抱き合い互いの健闘を称えた。判定に持ち越された対戦でも、判定が下った後、格闘家たちは程度の差はあれ満ち足りた表情で抱き合い互いの健闘を称えていた。

5.  第七・第八試合

「ア・レ・ク、ア・レ・ク」、の合唱の中で始まった第七試合(ヘンゾ・グレーシー対アレクサンダー大塚)。パンチ、蹴り、寝技ともヘンゾに一日の長があった。判定は5-0。グレーシー一族は遺恨を抱かれる敵役であった。闘いのコロシアムに身を置いて思い知らされたことだ。リングアナによるヘンゾ・グレーシーの紹介に、ブーイングで応じる観客さえいた。私にグレーシー一族への遺恨はない。

 桜庭がホイラーを一方的に攻め続けた第八試合(桜庭和志対ホイラー・グレーシー:15分、2R、延長なし、判定決着なしの特別ルール)では、私(二階席の最前列)の後方の席から、「殺せーっ」という本気とも過激な声援ともつかぬ声が時折聞こえた。新日であればレスラーの口から吐かれる類の叫びだった。中山美穂のコンサートで「脱げーっ」と声援を送るようなもので、無体この上ない注文だ。

 試合展開から両者の力の優劣を見て取ることが私にはなかなか出来なかった。ホイラーがマットに尻をつき、桜庭が移動する方向方向へと両脚が向くように、尻を支点に身体を回転させるだけで、いつまでも起き上がろうとしないという場面が続いた。桜庭を寝技へと誘うかのようなホイラーに対し、隙を見ては脚を狙ったキックを、時にソバットを見舞う桜庭の闘い方に、あんな攻撃がどれくらい有効なんだろう、内心そう思っていた。1R終了時点、尻をついたままのホイラーの左右の太腿の裏側は赤黒く変色していた。立ち上がったホイラーが脚を引きずることもなくコーナーに戻ったのは、何事もなかったことを殊更に装うためであるかに見えた。

2R。もはや桜庭の優位は鮮明だった。ホイラーのマットに尻をついた体勢は強いられた窮地であった。そのことはいずれ、寝技に誘うという企図より、立ち技の応酬ができない苦境を明かしていた。判定なしの特別ルールのもとで、引き分けを狙い、グレーシー一族に受け入れがたい決着は避けねばならなかった。

2Rの半ば過ぎ、桜庭がホイラーにのしかかって押さえ込んだ。第一試合の松井ほどの力も残っていなかったか、ホイラーは右腕をとられ、徐々にアームロックの鋭角は際立ち、捻じ曲げられた腕の撓みは危ういほどに増していったが、ホイラーはタップ(参った)せず、セコンドについたヒクソンもタオルを投げ入れなかった。2R13分16秒レフェリーストップ。

このとき有明コロシアムに歓声が響動(とよ)んだ。コロシアム全体に煙る靄まで揺らいだかのようだった。

 特に高ぶってもいない声で桜庭が言う。「次は、お兄さん、僕と勝負してください。」

 このときも歓声が響動んだ。

 コロシアム中の歓声は中央の四角いリングへと集束し、白いマットのその中心にはやさしい顔をのせた強く美しい肉体がすっくと立っていた。

(了)

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