分からないのは読み手のせいではないこともある

分からないのは読み手のせいではないこともある

書物を読んでいると、書いてあることが自分には理解しがたいほど難しく思えて「よく分からない」と感じることがある。特に翻訳の場合に。これは必ずしも読み手のせいであるとは限らない。

C・ランスロ/P・アルノー著『ポール・ロワイヤル文法』(ポール・リーチ編序/南舘英孝訳、大修館、1972年)の「【編者の序】現代の言語学にとってポール・ロワイヤル文法とは何か」中で、ポール・リーチはミシェル・フーコーの『言葉と物』の一節を引用している。(恐らくフランス語原文をそのまま引用しているはずだ。)

この一般文法とは、これが表わす役割をもった思考の同時性に対する語順の研究である。だからこの文法が対象とするものは、思考でもなくして、語の記号の一連として理解された話(わ)である。 
(太字部は翻訳では傍点。「この一般文法」とは「ポール・ロワイヤル文法」のこと……引用者)

 これを読んで合点が行かないとしても読み手のせいではない。同じ箇所を渡辺一民・佐々木明訳(新潮社、1974年)の『言葉と物』に見る。

《一般文法》とは、《表象されるべき同時的なものとの関係における、言語上の語順の研究である》。一般文法の固有な対象は思考でも言語(ラング)でもなく、言語記号(シーニュ・ヴェルバル)の列として理解された言説(ディスクール)なのだ。

これなら合点が行く。これに続く部分はさらに理解を補強してくれる。

この列は表象の同時性から見れば人為的であり、その限りにおいて言語(ラング)は、反省的なものが直接的なものに対立するように思考に対立する。 
(渡辺一民・佐々木明訳)

「言語記号の列」の「人為性」は、異語を前にすれば容易に実感できる。そのとき、母語においては、同じ「人為性」が既に「所与=自然」に転化していることも、反省的思考をもってすれば把握可能であろう。

【編者の序】中に引用された『言葉と物』の一節の日本語訳に感じられる混乱には様々な原因を想定できるが、その淵源を、「異語=人為性」と「母語=自然」の対立に求めても牽強付会とはならないはずだ。

「よく分からないと感じた」のは、「書いてあることが自分には理解しがたいほど難しい」からではなく、わけのわからない書き方がされていたからなのである。 

 (了)

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